いとみみず宇宙とは何か?


山田鰆

山田鰆

Author:山田鰆
■2012.02.27
COOKIE SCENE
にて
「ぶらりなとがり」レビュー掲載

■2012.01.29
ネットレーベル“同窓会”にて
3rd音源
ぶらりなとがり
発表
■2011.09.11
ネットレーベル“同窓会”にて
2nd音源
さてんれっきす
発表
■2011.08.01
彼らは音楽をやっててインターネットがそこにあるってだけだよ
インタビュー掲載
■2011.05.01
M3-2011春
Ustream Checkerコンピレーションアルバム"We love ustream checker!"
「たはぺばてぷにぼ」
■2011.02.14
1st音源
はだかもぐらねずみ
発表
■2010.05.06-2011.04.22
場末町AP/音楽枠
「たかやまとしひろ」

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たろちんさん崇拝者みたいな文章ですけどそういうわけじゃないですでもたろちんさんはめっちゃめちゃ好きです。
20110622.png
SAIおもしれー。どうも僕です。

顔が整ってるとあーだこーだという記事を書いて、今速攻で消しました。おもんなかった。整ってないもんは仕方ない。

って言うわけで以下について話します。
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いいおとこ、という人は、前に記事で取り上げた「いいおとこのおまぬけ天鳳日記」を書いている人物のこと。なるほど確かに麻雀に関すること以外の記事では、難しいというかカッチョいい文章を書いている。

思うのは、ニュアンスを言葉に変換することは難しい。難しい言葉から簡単な言葉(しゃべり言葉)に変換すると、以下のようになる。

私は今日、上司にお褒めの言葉をいただき、大変恐縮した。
 ↓
私は今日、上司に褒められ、身が縮んだ。
 ↓
マジで、今日、上司に褒められてすげーびびった。

この中で、人様に見せる文章として一番適切なのは一番上だと思う。でも一番伝わりやすいのは?と聞かれれば、僕はなんとなく一番下のそれだと思ってしまう。もし自分が上司にいきなり褒められたら、恐縮したわーというよりは、うお、びびった!という反応になりそうだから。つまり、僕みたいな頭でろんでろん人間にとっては、難しい文章のニュアンスを適切に処理できない。
ただ思うのが、“恐縮”がその時の一番適切だろいうということ。“びびった”だと色んな意味を含み過ぎて、揺らぎすぎるし、何より“恐縮”を正しく変換できていない。

考えたことを文章で展開しようとするには、そのニュアンスを伝えるためにも語彙が必要だ。その考えをより近い表現で文章にするためには、的を絞った言葉を使わなければいけない。だからもっと語彙の勉強をして、いいおとこやRevin氏のようにカッチョいい文章を書くべきなんだろうけど、僕がそれをしないのは、たろちん氏の文章に触れて感動したからだ。あんなにスラスラ読める文章は、なかなか無いと思う。小難しい表現をこねくりまわすわけでもないのに、どんどん身体に吸い込まれていく感じ。人を選んでいない、菩薩みたいな文章だと思った。

まあ僕にたろちんさんのような文章が書けるわけではないけれど、周りに散らばってるおもちゃで間に合わせ遊びみたいな感覚で文章を綴った方が、僕の能力値からして、そして読む人たちへ、丁度いいんじゃないか、と。お馬鹿さんの僕が書くには、お馬鹿さんのlotte君がへー、なるほどーって言ってくれるような、そんな表現を集めた方が、なんとなくくすまない気がする。多分するだけ。この日記、基本的に無駄に長いだけだから。ちんちんびろーん。

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ぴーちくぱーちく
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好きだからってなんでも許すのは違う。うん。確かにそう思う。でも、それは倫理的な部分に範囲を絞らないと成立し得ないと思う。最近自分の周りに既婚者が増えたり、母親と父親の仲をよく観察するようになったり、自分自身年齢的にも環境的にも結婚という単語がちらついているからこその考えかもしれないが、許すことはとても難しいのに、特にそれは男女間に根本として根付かされている。許す範囲を広げなければ発展できない。逆を言えば、発展を望まなければ許す必要なんてない。「アイツはそういう奴だから」の寛容さ。

でも許す人と許される人って大体いつも同じよね。僕はどちらかというと許されている人間だと思う。超わがまま。超性悪。マジ性格悪い。許すという行為の名のもの、双方は加速するよね。許されている人はどんどん緩くしていって、もっと広い範囲を許してもらおうとするし、許す人はより広い範囲を許そうとしてくれる。申し訳なくなってきた。テテーン。

甘え以外の何物でもないな。しょーもな。
“なんも気づいてない振りをして「仕方ない」ってあきらめるような人間にはなって欲しくない”は、とても心臓に突き刺さる一文。これは関係の両端に対して言っている一文ではなく、関係のど真ん中のみに言っているものだと感じる。つまり、私⇔あなたではなく、自分自身に、ということね。何も気づいてないわけではない。むしろ気が付いていることに気が付いてしまっている。だからこそ、仕方がないと諦める。スパイスとしてたまに必要かもしれないけれど、いつもそれじゃいけない。自分自身が廃れていくのを見守ることになってしまう。

今日はもう一つ。
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これはちょっと違うんじゃないかなぁ、と思った。この発言を読んでわたるんの許すの話を思い出したんだけど、中性的な人が増えているのは、それが許されているからじゃないだろうか。そもそも昔から女らしく、男らしくという単語が出てくるのは、多く上から下に向かって言う時だと思う。いや、単語自体は同列あるいは下剋上の図式でも出てくるけど、その単語を強要してくるのは、方向はだいたい決まっている。男は男らしく、そう生きることが当たり前だった過去に比べ、今は中性どころか性別をかえる人間が堂々とメディアに出てくる。自分の周りでも、なよっちー男がゴロゴロいるし、たくましい女性が溢れている。それが、許されるようになったからこそ、中性的な人間が増えてきているのではないだろうか。

僕自身性別を聞かれることが多々あるが、僕は別に男らしく生きている訳でもなく、かといって女性らしく生きている訳でもない。訳でもないというか、どちらも不可能だから、できない、が正しい表記だな。どちらも持ち合わせているから中性的なのではなくて、どっちつかずなだけだ。こんにゃく人間。ふにゃふにゃさまよっているだけ。

ああ、でも、役割の分担が曖昧になっている、という意味では、この発言は正しいね。家事だって女性が主に受け持っているかもしれないけれど、夫婦間でこれ、と決まってはいないかも。それこそ昔はうちの父は家事はなーんもしない、というのが普通だったけれど、そのことで母親がブチ切れてからたまーに昼食くらいは作ったり、洗濯物を畳んでくれたりする。洗濯はいまだにできないけれど。

ただ一つ言いたいことは、男性がスカートをはくのは個人的に本気で気持ち悪いんでやめた方がいいと思います。おしゃれだとは僕は思いません。友達の彼氏がたまにスカートはいてくるけど、その度に「気持ち悪い」と本気で言います。いやマジで…マジで…。

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嫉妬激励感謝祭
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嫉妬をするためには、何が必要になるのか。知識?愛情?妬み?根性?度胸?愛と勇気?だけが友達さ?
わかんないときは経験を参考に。自分の過去を振り返って、嫉妬したときのことを思い出してみる。特に無い。はい終わり。いやきっと少しくらいはあるはず。探せ探せ。…見当たらないので周りを見渡してみる。

嫉妬を抱く要素として1つ目は、自分の作り出すもの、持っているものに過剰な自信を抱いているとき。過剰かどうかはどうでもいいか。嫉妬を抱く相手は、フッと目の前に現れる。相手からしたら地道な過程があったのかもしれないし、本人が驚くほど急に結果が出たのかもしれない。でもコチラからすれば、自分の持っているものより遥か遠い世界をいくものが突然前に現れたことになる。
自分の狭い部屋なりに出した最高の結果より遥かのぞみにあるものが別の部屋に存在することは薄々気が付いていたものの、自分の部屋にないのだし、と、知らないふりをしていたのに、その別の部屋の奴が扉を叩いて侵入してきたとき、見せつけられたとき、嫉妬を抱く。

2つ目は、自分に何もないと思っているのに何かしらあって欲しいと焦っているとき。何かしら自分にはあるはずなのに、どうしてこの人たちのように何か見つけられないんだろう、僕は、私は、なぜ?という思いから抱く嫉妬。

明確ではないけれど、話を聞いてまとめるとこんな感じだと思う。
1つ目の要素に対して言えることは、自分の持っているものに自信があったのだから、どうにか立ち上がるべきだ、ということ。諦めではなく、勇敢に立ち向かって、己を突き進めること。人の思う“凄さ”のベクトルなんてありとあらゆる方向に向いているのだから、自分のものだって遥か彼方を行くことができるはず。
そして、こういう人が抱いた嫉妬は深い愛情にかわるように思う。嫉妬を抱くまでのめり込んだ世界だからこそ、それを乗り越えたとき、長く好きで居続けるんだろうな、ということ。
2つ目の要素に対して言えること、というか思うことは、えらく悲観的だな、ということ。なんだろう、ひどく曖昧な印象がある。趣味は何?って言ったら、無難な答えが返ってきそう。でもその人たちは悪く言って曖昧、というだけで、とても柔軟だ。加えて素直でもある。嫉妬を抱く方向が多ければ多いほど、それ。

魅力なんて客観視してかつ接近しないと気が付けないのだから、自分で自分の魅力がわかる日なんて永遠にくる気がしない。自分で自分の魅力がわかっている、という人は、他人から言われたことを鵜呑みにしているか、自分を勘違いしているかのどちらかだろ。前者の場合は客観が入っている分多少の信憑性はあるけれど、後者はアテにならない。ただ、魅力は無いものではない。自分には無いものだと言うと、世界がちぐはぐになってしまう。そして、大小を決めつけるものではない。魅力は好みが絡まってくる部分である以上、比較対象にすべきものではない。

少年よ、大志を抱け、などと言った偉人もいるが、大志なんて抱いていたら絶望しかしないんじゃないか?常に上ばかり見せつけられて、結果を迫られているように感じる。THE・圧迫面接、みたいな。うつ病になっちゃうー!
だったら、兄ちゃんら、向上心持っとけな、くらいでいいんじゃないかな。社会的弱者の僕が言うと何の説得力もありませんけど。

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びーうぉっちど
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無題
人々の評価は左右されやすい容易いもので、たった一つの情報で暴落したり、はたまた突発的な出来事で上昇したり、流行の移り変わりに沿って廃れていったりする。この発言の「注目」は“関心をもって見守ること”を意味しているのだと思う。そういえば「評価」はどんな意味なんだろう。“ある事物や人物について、その意義・価値を認めること”か。“事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること”もあるな。
注目と評価はどんな関係をもっているのだろうか。注目された後に評価されるのか。評価されたから注目されるのか。

大衆からの注目は評価された後でしか成立しない。明らかにどこかで大成を成し遂げなければ、評価の基準が専門的な線から脱し、曖昧になったときに、数値や周りの声で示されるには何かの成功が必要だ。その成功のきっかけが作為的なものであれ、大衆の評価にとってその過程は関係ない。
しかし部分的な注目は、評価とそれのどちらが先でも成立しうる。
情報の根源が確かなものでないことは承知で例を出すとしたら、スネオヘアーか。
僕は彼の初期の作品しか知らない。アニメのOPで曲が使用されてから、飽きて聴かなくなってしまった。僕の中のスネオヘアーは、殺伐とした景色の中で叫んでみたようなものを提示して来たり、かと思えば日常の景色を肘をついてぼーっとみているような世界だったり、あまりにも美しい風を吹かせたり。一言で言うなれば、少し傷のついた根こそぎPOP、という感じの印象だった。あのすっとぼけたような歌声も相まって、当時の僕にはどツボだった。しかしそれらは大衆にはあまり触れていなかったように思われる。しかし音楽関連のお偉い人に評価されたのか、色々な部分で世間に出るようになってきた。そして傷を癒してしまったPOPみたいな曲で、大衆に評価された。と、思う。知らんけど。

評価というのは本当にやっかいなもので、最初の評価対象はちゃんと本質にあるのに、だんだんと変化してきてしまう。そして不確かな情報に左右され、消えて行ってしまう。これは僕自身体験している。
ART-SCHOOLが大好きだった。病んでる^q^時。ART-SCHOOLのドラムが群馬出身で、予備校の時だっけな?に高崎にライブをしに来たので見に行った記憶がある。CDに収まりきらないあの轟音を生で聴けると思うと胸が弾んだ。
だのに結果としては散々だった。ライブ自体の評価じゃない。周りのファンのせいだ。木下君だいしゅき~女子により、興ざめしてしまった。それ以来彼らの曲に触れることはほとんど無くなった。
ゲーム配信者でもそうだけれど、最初は配信者自身のゲームに対する何かしらを評価してたはずなのに、いつのまにやら評価の基準がチャットや配信者の私生活に移ってしまったりする。

僕たちが求められる評価とは一体なんなんだ。僕たちが求める評価とは。思っているよりずっと汚くて意味のないものなのかもしれない。

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vs 鍵盤人間
hjkぁ
作品を作る立場の人間って、いつもこの自分色ってのに難題を抱え込んでうずくまっている気がする。
僕の場合、その自分の色っていうのはどこにも無いし、自分自身求めちゃいない。なんというかそんなもんに悩まされることがとてつもなく重労働で、疲れることきらーいわーいわーい人間な僕はあっかんべをして逃げまくる。

だのになんでこのとんちゃんの発言を取り上げたかという話をしますとね、たしかに、鍵盤の人ってピンとこない人がおおいなぁ、と。
フジファブリック、サカナクション、もちろんとん・ぶり、あとまあ他にも、素晴らしい人はあんなにたくさんいるのに、ピーン!とはならんよなぁ。
鍵盤で自分色ったらかえるさんくらいしか見たことない。
でもそれでも、でもでも、僕がとんちゃんに頼って遊びを持ちかけるのは、主張の穏やかさが安心できるし、とてもやりやすいからかなぁ、とは思う。フロントマンのあのうざったらしい主張じゃなく、すっと染み込んできて、違和感なく溶け込んでくるくせに、ちゃんとそこにある、みたいな。

技術の話で上手い人はやたらたくさん居て、それをのっけから見せつけられたからにはそりゃ向上心もなくなりますよ。っていう調子で適当にやってたらローファイだのなんだの好き勝手言いおるのう言いおるのうおうおう、で、ローファイってなに?みたいな。

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